Moroccan Culture モロッコの文化

食べ物

旅行の楽しみの一つが現地の食事。
辛~い香辛料をたくさん使った、好みの分かれるような料理をイメージしている人は多いと思います。
モロッコに行ってみてびっくり。思った以上に癖がなく、食材の味を楽しめる日本人の口にも合うとても好評な食事です。
肉や野菜をふんだんに使ったタジンやモロッコの種類豊富な香辛料など、 モロッコの食文化をこれから少しずつ紹介していきます。

アラビアパン

モロッコ人の主食はパンで、毎日の食卓に欠かせないのがこのアラビアパンです。
日本語のガイドブックではよく「アラビアパン」と呼ばれていますが、モロッコ人は一般的にパンのことを「ホブス」と呼びます。
直径20cmぐらいの円形のものが一般的で、中身がふっくらしたものもあれば、しっとりとしてずっしり重いものもあります。
モロッコ人の家庭では、このパンを自宅で焼くところも多く、味もその家庭によってさまざまですが、自家製はどれもやはりおいしいです。
自宅でパンを焼く家庭は多いのですが、やはり日本や西洋諸国のようにどの家にもオーブンがあるわけではありません。
そこで、特にメディナでよく目にするのは、パン生地や焼けたパンを持って歩いている人々です。
だいたい、1日か2日分のパンの生地を作り、それを平らな板の上に乗せ、出掛けていきます。
彼らの行き先は「パン焼き屋さん」。
大きな釜があり、そこでは一定の料金を払えば焼いてくれます。
そして焼きあがった頃にとりに行くわけです。
大きな釜でいくつものパンを一度に焼くのですが、目印もないにもかかわらずどの家のパンかをパン焼きの職人さんはわかるそうです。
この「パン焼き屋さん」は人々の生活に欠かせないもので、細かい地区に分かれているメディナの各地区に最低1つはあります。
メディナ内を歩くとあちらこちらでパンの焼けた香ばしい匂いがするのはその為です。
もちろん焼きあがったパンを買うこともできます。
また、住宅地などでは小さな商店が地域ごとにあり、毎朝焼きたてのパンを買うこともできます。
このパン、食べ方はいろいろ。朝食で食べる場合はバターやジャム、蜂蜜、オリーブオイルなどをぬってシンプルに。
昼食や夕食でおかずがある場合は小さくちぎってパンでおかずをはさんで食べたり、パンをスープにつけたりして食べます。お箸やフォークの代わりにパンを使うという感じです。

「ホブス」というアラビアパン
「ホブス」というアラビアパン
鶏、牛、羊、卵、野菜…さまざまな食材のタジン
鶏、牛、羊、卵、野菜…さまざまな食材のタジン

イスラム教

イスラム教の始まり

イスラム教は日本語で回教とも呼ばれていますが、この“イスラム”という言葉はアラビア語で“平和”を意味する“サラム“という言葉に由来し、
「神への帰依や服従」や「平和」を意味を持っています。
イスラム教は、570年頃アラビア半島の商業都市メッカで商人の子供として
誕生したモハメドがのちに開いた宗教です。

預言者モハメドは20歳の頃、それまで仕えていた20歳年上の裕福な
未亡人ハディジャという女性と結婚。610年頃、モハメドが40歳の頃メッカ郊外の洞窟の中で天使ガブリエルより神(アッラー)の啓示を何度も受け、布教活動を始めました。
これらの啓示を後に一冊の本にまとめたものがイスラム教の経典コーランです。
モハメドは精力的に布教活動をしましたが「神の前の平等主義」を主張した為、
富裕層や権力者には受け入れられず、迫害を受け、メッカは混乱。
モハメドは日に日に激しくなる迫害、弾圧に耐えられなくなり、622年信者を連れメディナへと移動。この移動を聖遷(ヒジュラ)といい、ヒジュラをもってイスラム暦の元年となります。
新しい土地 メディナでモハメドは信者を増やしていきました。
力をつけたイスラム教徒を恐れたメッカに住むクライシュ族は大軍を送りモハメドを倒そうとしましたが、奇跡的にもムスリム軍が勝利します。
この戦いから聖戦(ジハード)が始まりました。
聖遷(ヒジュラ)から8年後の630年ついにイスラム軍はメッカを占領、奪回することに成功。

モハメドはメッカ占領の2年後に亡くなりますが、彼の弟子達によりイスラム教はアラビア半島、シリア、エジプト、北アフリカ等急速に広まって行いきました。
現在では西、中央、南、東南アジアにまで広がり、
信者数11億人ともいわれ、キリスト教に次ぐ世界で二番目の宗教となっています。
モロッコでは国教をイスラム教と定め国民の大多数が信仰しています。

モロッコのモスクはこういった塔の形が特徴
モロッコのモスクはこういった塔の形が特徴

ラマダン(断食月)

イスラム教徒は年に一度イスラム五行(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼)
の一つであるラマダン(断食)を行います。
ラマダンはイスラム教の開祖預言者モハメドがメッカからメディナに移住した
年622年を元年にしたイスラム暦(太陰暦で1年が354日)の第9の月にあたる月に実施する為、
毎年実施期間が替わります。
ラマダンとは、イスラム教徒が「断食をする月」という解釈ですが、
実際には1ヶ月間全く食事を取らないわけではなく、
日の出から日の入りまでの間、飲食や喫煙、性行為などを絶ちます。
この時期は化粧や香水をつけること、異性と腕を組んだりすることも禁じられています。
イスラム暦に従って、ラマダンの実施月が決まるため、年によっては夏と重なり太陽が出ている時間がかなり長く、とても過酷な1ヶ月となります。
断食をするのは空腹感を知り、貧しい人々の苦しみを知り積極的に喜捨を行うようにするため、など理由がありますが、
第一は彼らの経典であるコーランに断食をするように書いてあるからとも言われています。
基本的にすべてのイスラム教徒が行いますが、旅行者、妊婦、病人、生理中の人は免除されています。
しかしこれらの人は後日、体が通常の状態に戻れば、出来なかった日数分ラマダンを行います。
つまり、周りがラマダンをしていない時にしなければならないと言うことになります。
また、もしラマダンの規則を破った場合は、破った日数x2ヶ月を断食するか、60人の貧しい人々に食事を与えなければいけないという決まりがあります。
ラマダン期間中は、日中食事を取らないため、ほとんどの会社では昼休憩がなくなり、その分2時間を繰り上げ、仕事の時間(ビジネスアワー)をだいたい15:00までとしています。

フトールでよく食べられるハリラとナツメヤシの実
フトールでよく食べられるハリラとナツメヤシの実

世界遺産

現在モロッコ国内で8箇所が世界遺産に指定されています。そのすべてが文化遺産で歴史を感じることができるものばかりです。
同じ国内でも都市、街によりそれぞれ違う形、姿、雰囲気があり興味深いものばかりです。よく耳にするフェズ、マラケシュ、
アイト・ベン・ハドゥなどだけでなく、なかなかテレビなどでも取り上げられることの少ない箇所も、独特の文化・歴史があり、見る価値はあります。

フェズ旧市街
(Medina of Fez)1981年登録
マラケシュ旧市街
(Medina of Marrakech) 文化遺産 / 1985年 登録
アイド・ベン・ハドゥの集落
(Ksar of Ait Ben Haddou) 文化遺産 / 1987年 登録
古都メクネス
(Historic City of Meknes) 文化遺産 / 1996年 登録
テトゥアン旧市街(旧名ティタウィン)
(Medina of Tetouan) 文化遺産 / 1997年 登録
ヴォルビリスの古代遺跡
(Archaeological Site of Volubilis) 文化遺産 / 1997年 登録
エッサウィラの旧市街(旧名モガドール)
(Medina of Essaouira(formerly Mogador) 文化遺産 / 2001年 登録
近代都市と歴史的都市が共存する首都ラバト
(Rabat,Modern Capital and Historic City:a Shared Heritage)文化遺産/2012年 登録

ファティマの手

現在でも女の子に一番付けられる名前“ファティマ”とは元々イスラム教の預言者モハメドの末娘の名前から来ています。彼女は生前、貧しい人や病人などを進んで助けるような大変優しく、
心の広い人であったことから、現在でもイスラム教徒に大変尊敬されています。
そのファティマに関する有名なエピソードがあります。

ファティマはいとこのアリと結婚し、ハッサンとフッサインと言う双子を授かります。
成長した双子はある時戦地へと出兵しなければいけませんでした。
戦地へ向かう息子を見送る朝、ファティマは両手にヘンナを施し、ヘンナがまだ乾かないその手で息子たちの肩を抱いて見送った為、双子の軍服にはファティマの手型が残りました。
負傷者、犠牲者が多かったその戦いで息子たちは無傷で戻ってきたと言われています。
このことから、現在でもファティマの手は“魔よけ”や“お守り”としてモロッコでは生活に大変密着したものとなっています。

お土産屋さんなどではペンダントトップ、キーホルダーなどもあり、また、メディナを歩くと家のドアノッカーとしても使用されているのを多く目にします。

日本ではなかなか見る機会もなく、お土産にもおすすめです。
また、家々によって形が違いますので注意深く観察するのも面白いかも知れません。

ちなみに、この双子のお墓は現存しますが、かわいそうなことに2人は別々に埋葬されています。
ハッサンのお墓はイラクのカラバナに、フッサインのお墓はエジプトのカイロにあると言われています。
現在でも双子の男の子が産まれると、この2人の名前が付ける親が多いそうです。

ファティマの手も・・・
ファティマの手も・・・
いろいろなタイプのものがあって・・・
いろいろなタイプのものがあって・・・
見つけ出すのが楽しくなります
見つけ出すのが楽しくなります

ガゼルラリー(Rally Aicha des Gazelles)

「ラリー・アイシャ・デ・ガゼル」は1990年、自動車関係の仕事に就いていたフランスの女性実業家ドミニク・セラが創設した、
ドライバーとナビゲーターを女性に限定した国際ラリーです。「ガゼル」とは小鹿と言う意味で、参加者は期間中「ガゼル」とよばれ、
ガゼル・ラリーという名でも知られています。大会は毎年3月の中旬から下旬にかけて開催されています。
このレースはモロッコのサハラ近辺2500キロメートルを、チェックポイントをクリアしながら8日間かけて走り抜ける過酷なレースです。
四輪駆動車、カミオン(トラック)、二輪車の3カテゴリーに分かれて競われます。
よく知られているサハラを進む、男性のラリー「パリ・ダカールラリー」はタイム差を競うレースですが、
こちらはGPSやロードブックなどは一切使わず、地図とコンパスだけを用いて最短のコース選択、
正確さなどが重視されるラリーです。順位は各ステージにおけるチェックポイント通過の有無、走行距離、
ペナルティーの数などを減点法で換算し、マイナス点の少なさを競います。参加条件はプロ・アマ、経験の有無を問わず、
これまで、世界各国から沢山の人々が参加しています。1990年の第一回大会はフランスの9チームのみの参加でしたが、
2008年には13か国(フランス、カナダ、ポルトガル、ナイジェリア、南アフリカ等)97チームにまで増えました。
またこれまでに、世界の主要自動車メーカーである、BMW、FORD、LANDROVER、MERCEDES、MITSUBISHI、NISSAN、
PORSCHE、SUBARU、SUZUKI、TOYOTA、VOLVO 等の車が参加しています。日本ではまだまだ知られていませんが毎年、
100名以上ものジャーナリストが世界中から集まり、フランスを中心に800万人以上の人々がテレビでラリーを観戦しています。
このラリーのコンセプトは以下の3点が基本となっています。

  • 医療:ラリーに医療キャラバン隊(医師、看護師20名前後)が同行し、ラリーの期間の8日間、病院設備などの乏しい砂漠地帯の村々を周り、
    小学校などで医療相談や診察を行い、薬を処方しています。また、同時に彼らが必要とするものを調査し、必要な医療機器などを提供します。
  • 教育:学校建設の援助、文房具などの提供、設備や仕事場で必要な糸を購入するための融資。
    エッサウィラの「ストリートチルドレンセンター」の改装工事をしているBAYTIというモロッコの組織への手助けをしています。
  • シングルマザーへの支援:幼い子供を抱えたシングルマザーを支える非営利団体「Solidarite Feminine」の活動を支援するため、
    オムツやミルクなどのベビー用品や「Solidarite Feminine」が運営しているレストランへキッチン用品を提供しています。

大会は何もないサハラで行われるため主催者側は参加者の安全、健康面にも大変気を配り万全の体制を整えています。
まず、医療面では医者、看護婦、医療用ヘリコプターを待機させ本格的診察、処置を常時受けることができます。
また、本部が位置確認をするためのGPSを搭載し、問題が生じた場合の救助、捜索に24時間体制で対応します。(GPSはラリーでは利用しません。)
燃料は協賛であるtotal社から給油され、野営場所では整備士が常時待機し、レース中の食事はすべて提供されます。
レース終了後はエッサウィラにて全選手への表彰、式典、パーティーなどが開催されています。これまでに日本人選手は2チーム、のべ3人の女性が3大会に出場しています。
Rallu Aicha des Gazellesの公式ホームページ

サハラマラソン(MARATHON DES SABLAS)

世界で最も過酷なマラソンと呼ばれるサハラマラソン。1986年より毎年、3月の下旬から4月の上旬にかけて、
11日間の日程でモロッコ南東部のサハラにて行われています。
コースは6ステージに分けられ約230kmを7日間で完走するレースで、出場者は水以外のレースに必要な食料、
寝袋、着替え、コンパス、懐中電灯等を入れた6kg~11kgのバックパックを背負って走ります。

サハラの気温差は大きく、日中は40℃ぐらいまで上がり明け方は14℃ぐらいまで下がり、コースも足元の悪い砂丘、
勾配の大きな砂山があったりと過酷な条件の下、すべての選手に不利にならないように毎年コースは更新されロードブックは前日に渡されるという徹底振り。
毎年、日本を含む世界中から700人以上、これまでに延べ8500人以上が参加し、年齢層も最高齢78歳、最年少16歳と幅広い。

西サハラ問題

「西サハラ」とはモロッコの南、モーリタニアに挟まれた大西洋に面したサハラ砂漠の西の地域を指す。
現在でも西サハラの独立を目指すポリサリオ軍とモロッコが領土の主張をし、解決に至っていない土地である。
西サハラは15世紀後半にポルトガルに支配され、その後1886年スペインの保護領となった。
1975年11月6日非武装の35万人のモロッコ人が西サハラの返還を求め「緑の行進」を行う。
1976年スペイン軍が完全撤退をし領有権を放棄。その後、マドリッド協定にて北部をモロッコ、南部をモーリタニアが分割統治が決定する。
それに反対したポリサリオ戦線は独立を目指しサハラ・アラブ民主共和国の樹立をアルジェリアで宣言。
1976年ポリサリオ戦線と武力紛争勃発。モロッコは占領地域に砂と鉄条網、地雷原等で防御する「砂の壁」を作る。
国連の立会いの下、1988年に停戦成立。独立かモロッコ併合の住民投票が予定されたが延期。現在も帰属問題は解決されていない。
モロッコ国内からつながる「砂の壁」は今では全長2,000kmに延び実質、西サハラはモロッコの監視下に置かれている。
モロッコ国内ではかなりデリケートな問題の為話題にするのはあまり好ましくないので避けた方がよいでしょう。

※サハラ・アラブ民主共和国は現在約60カ国が国として認証している。
日本や欧米などの先進国は未認証である。現在でも11月6日は緑の行進記念日としている。
西サハラに対する渡航情報が外務省より発令中。紛争は現在停戦中ですがその際に埋められた地雷が撤去されておらず
危険な場所があるため、渡航注意、延期が出されています。
詳しくは、こちらよりご覧下さい。
外務省 海外安全ホームページ
右上のエリアに「西サハラ」と入力して下さい。